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ふと思い出した出来事がある。

僕の知人に、あるグループに熱心に関わっている人がいた。

神社を巡り、その土地の力を活性化させることで地球を救う、というそんな考え方を掲げている団体だった。

教祖と呼ぶべきなのかどうかはわからないけれど、
中心となる人物がいて、その人の考えを学びながら活動していた。

実は僕も熱烈なお誘いを受けて、
一時期だけ参加したことがある。

ただ、どうもしっくり来なくって、僕は途中で離脱した。
が…
その知人は違った。

ずいぶん熱心にのめり込んでいて、
残りの人生を捧げるのだ、と言うくらい、
その活動こそが大切なものだと信じているようだった。

ある日のこと。

別の知人が、その人に本を紹介しようとした。
心理学関係の本だった。

「とても面白かったので、よかったら読んでみませんか」
という、
そんな感じの、ごく普通の善意からの紹介だった。

ところが、その知人は軽く嗤ってこう言った。

「あぁ、私、そういうものからは卒業したの。もっと高みを目指しているもので…」

その場では特に何も言わなかったけれど…
その言葉だけは妙に記憶に残った。

もちろん本人に悪気はなかったのだとは思う。

本気でそう感じていたのだろう。
自分はもうその段階を通り過ぎた。
もっと先へ進んでいる。

そんな感覚だったのかもしれない。

でも、なんだか不思議だった。

心理学を学ぶことと、神社を巡って作法を行うこと。
どちらが高くて、どちらが低いのだろう。
そんなもの、本当に比べられるのだろうか。

考えてみると、この手の話は宗教に限らない。
自己啓発でもある。
哲学でもある。
健康法でもある。
投資でもある。

あるいは仕事のやり方や人生観だってそうかもしれない。

人は、自分を救ってくれたものを大切にする。
それは自然なことだと思う。
苦しい時の支えになったものなら、なおさらだ。

だけど、ときどきその大切なものが、
「これが一番正しい」
になり、

さらに進むと、
「知らない人は損をしている」
になり、

最後には、
「わかっていない人は低い場所にいる」
になってしまうことがある。

不思議なのは、その時の本人には見下している自覚があまりないことだ。

むしろ善意だったりする。

「こっちへ来ればいいのに」
と本気で思っている。

だから余計に厄介なのかもしれない。

そんなことを考えていると、ふと我が身も振り返ってしまう。

僕にも、自分なりに興味を持って学んでいることがある。
面白いと思っていることもある。

それを誰かに話したくなることもある。

でも、その時に僕は大丈夫だろうか。

自分のいる場所を「高み」だと思い込んでいないだろうか。

人は、自分の登った山を世界一高い山だと思いたがる。

ただ、どんな山であれ優劣などなく、
それぞれが違う山を登っているだけなのかもしれないのだけど…


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