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あの事故が起きたのは3月…
いま語るには、ちょっとタイムリーではなくなってしまったが。

あの謝罪会見を見ていて、どうにも引っかかるものがあった。

内容より先に、視界に入ってきたもの。
それが服装だった。

ああいう場で、あの格好なのか、と。
正直、そう思ってしまった。

別に、きちんとしたスーツを着ていればそれで誠意が伝わる、なんて単純な話でもない。
形だけ整えて、中身が空っぽ、ということもいくらでもある。

それでもやっぱり、謝罪という場には、ある種の「型」がある。
言葉の選び方だけじゃなくて、立ち方とか、声のトーンとか、そして服装も含めて。

その場には、その場でのふさわしい姿というものがある。
見てくれで「それ」を判断してはいけない、という見方もあるのだろうけど、
やっぱり、見てくれや印象というものは、人の受け取り方に強く影響する。

今回の辺野古の抗議船転覆事故。
二人の命が失われている。
そのうちの一人は、校外学習で訪れていた女子高校生だった。

その事実を踏まえたとき、
あの場のあり方がどうしても軽く見えてしまう。

謝罪というのは、内容だけで成立するものではない。
どう受け取られるかまで含めて、ようやく成立するものだと思っている。

それを外してくると、どうしてもそちらに意識が持っていかれる。
肝心の中身に入る前に、
「あれ?」
と引っかかってしまう。

今回も、まさにそれだった。

揃いも揃って、あのヨレヨレの服装を見て、
「なめているのでは?」と感じる人がいても、不思議ではないと思う。
そう見られて当然の格好だった。

ましてや、人が亡くなっている事故だ。
それも、未来ある高校生だ。

その重さに対して、あの場の光景はあまりにも軽く見える。
そう感じさせてしまう余地を、自分たちで作ってしまっている。

理由がどうであれ、そこは関係ない。
謝罪の場に立つ以上、「どう見えるか」は切り離せない。

ずいぶん前に、食品偽装の会社の社長が、白っぽいジャケットで会見に臨んで大批判を浴びたことがあった。
あのときも、服そのものというより、「なぜそれを選んだのか」という判断が問われていた気がする。

金髪の芸能人が、
髪を真っ黒に染めて、謝罪関係に臨む、
それだけで、その会見自体の印象が変わることもある。

ふさわしさ、というものは、はっきりしたルールがあるわけではない。
でも、不思議と共有されている空気のようなものがある。

それを少し外すだけで、言葉の重さまで変わってしまう。
そこが、なんともやっかいだ。

中身で勝負、と言いたいところだけれど、
その中身にたどり着く前に、入口で引っかかってしまうこともある。

謝罪という場は、とくにそういう場所なのだと思う。

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