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また、ずいぶん前の話だ。
1990年の事だから、
もう35年前と言うことになる。
時期はちょうど今頃の季節感だったかな。
当時勤めていた会社で僕は、
本社の総務部にいた。
けっこう業務の関係でやり取りのある、
僕より後輩の、女子社員が手術のため数日間休むと言う。
業務に支障が出ないようにとの配慮で、
事前に彼女の部署の所属長から連絡があった。
ほう?
なんの手術だろうか?
なんて思っていたが…
プライベートなことだし、
多くを語りたがらないような様子だったので、
僕は、その報告だけを受け取った。
後日、出社した彼女のお顔は…
明らかに、
違っていた😅
「逆さまつげの手術で…」
と聞いてもいないのに、
自分から言ってきた。
今よりも「美容整形」には世の中が不寛容な時代。
「整形している」なんて、軽はずみには口に出せない。
しかし、整形したい、という人たちの、まぁいわゆる「いい訳」としてあったのが、
「逆さまつげ」の手術というもの。
で、その言葉を聞いたとき、
僕はどこかで「あぁ、そういうことね」と納得した。
納得というより、
「納得したことにしていた」と言った方が近いかもしれない。
たぶん、本人も、周りも、そして僕自身も。
みんながそれぞれ、
うしろめたさ、を、
うまく扱うための言葉を必要としていた。
本音と建前、という言い方もあるけれど、
もう少しだけ繊細な話のような気もする。
本音を隠すための建前というより、
本音を「存在させておくための包み紙」みたいなもの。
「逆さまつげ」という言葉は、
その包み紙としてはちょうどよかった。
誰も傷つけず、
誰も踏み込まず、
誰も責任を取らなくていい距離を保てる。
そういう、ていのいい理由付け。
ただ、それを聞いている自分の側にも、
ちょっとした違和感は残る。
「それでいいのか」と思う気持ちと、
「それでいいことにしておこう」とする気持ち。
その間にある、ちょっとした引っかかり。
あれが、たぶん「うしろめたさ」なのだと思う。
人は、何かを選ぶとき、
必ずしも正しさだけで動いているわけではない。
むしろ、
「自分が納得できるかたち」
に整えることのほうが多い気がする。
そのときに使われるのが、
理由、という名の「カタチ」。
でも、そのカタチは、
あとからいくらでも整えられる。
だからこそ、
理由はときどき、あと付けになる。
少しだけ、見方を変えてみると、
人は「本音」をそのまま世に出すほど、
強くはできていないのかもしれない。
だから一度、
言葉というフィルターを通す。
そのフィルターが、
ときに「逆さまつげ」みたいな名前をしていることがある。
あのときの彼女が、
本当にどう思っていたのかはわからない。
ただ、ひとつ確かなのは、
あの場にいた全員が、
“それ以上は踏み込まない”
という選択をしていたことだ。
そして、その選択を、
それぞれがそれぞれの理由で正当化していたこと。
今思えば、
あれは優しさだったのかもしれないし、
単なる回避だったのかもしれない。
どちらとも言い切れない、
ちょっと曖昧な領域。
でも、
人が生きていく上で関わるのは、
たいていそういう場所なのだろうとも思う。
うしろめたさは、
消そうとすると余計に残るもの。
だから人は、
それに理由付けしてしまうのだと思う。
「仕方なかった」だったり、
「必要だった」だったり、
あるいは「逆さまつげ」だったり。
そうやって調整された理由の中で、
僕らはなんとか折り合いをつけながら、
今日も普通の顔をして生きている。
まぁ、たぶんそれで、いいのだけど。
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また、ずいぶん前の話だ。
1990年の事だから、
もう35年前と言うことになる。
時期はちょうど今頃の季節感だったかな。
当時勤めていた会社で僕は、
本社の総務部にいた。
けっこう業務の関係でやり取りのある、
僕より後輩の、女子社員が手術のため数日間休むと言う。
業務に支障が出ないようにとの配慮で、
事前に彼女の部署の所属長から連絡があった。
ほう?
なんの手術だろうか?
なんて思っていたが…
プライベートなことだし、
多くを語りたがらないような様子だったので、
僕は、その報告だけを受け取った。
後日、出社した彼女のお顔は…
明らかに、
違っていた😅
「逆さまつげの手術で…」
と聞いてもいないのに、
自分から言ってきた。
今よりも「美容整形」には世の中が不寛容な時代。
「整形している」なんて、軽はずみには口に出せない。
しかし、整形したい、という人たちの、まぁいわゆる「いい訳」としてあったのが、
「逆さまつげ」の手術というもの。
で、その言葉を聞いたとき、
僕はどこかで「あぁ、そういうことね」と納得した。
納得というより、
「納得したことにしていた」と言った方が近いかもしれない。
たぶん、本人も、周りも、そして僕自身も。
みんながそれぞれ、
うしろめたさ、を、
うまく扱うための言葉を必要としていた。
本音と建前、という言い方もあるけれど、
もう少しだけ繊細な話のような気もする。
本音を隠すための建前というより、
本音を「存在させておくための包み紙」みたいなもの。
「逆さまつげ」という言葉は、
その包み紙としてはちょうどよかった。
誰も傷つけず、
誰も踏み込まず、
誰も責任を取らなくていい距離を保てる。
そういう、ていのいい理由付け。
ただ、それを聞いている自分の側にも、
ちょっとした違和感は残る。
「それでいいのか」と思う気持ちと、
「それでいいことにしておこう」とする気持ち。
その間にある、ちょっとした引っかかり。
あれが、たぶん「うしろめたさ」なのだと思う。
人は、何かを選ぶとき、
必ずしも正しさだけで動いているわけではない。
むしろ、
「自分が納得できるかたち」
に整えることのほうが多い気がする。
そのときに使われるのが、
理由、という名の「カタチ」。
でも、そのカタチは、
あとからいくらでも整えられる。
だからこそ、
理由はときどき、あと付けになる。
少しだけ、見方を変えてみると、
人は「本音」をそのまま世に出すほど、
強くはできていないのかもしれない。
だから一度、
言葉というフィルターを通す。
そのフィルターが、
ときに「逆さまつげ」みたいな名前をしていることがある。
あのときの彼女が、
本当にどう思っていたのかはわからない。
ただ、ひとつ確かなのは、
あの場にいた全員が、
“それ以上は踏み込まない”
という選択をしていたことだ。
そして、その選択を、
それぞれがそれぞれの理由で正当化していたこと。
今思えば、
あれは優しさだったのかもしれないし、
単なる回避だったのかもしれない。
どちらとも言い切れない、
ちょっと曖昧な領域。
でも、
人が生きていく上で関わるのは、
たいていそういう場所なのだろうとも思う。
うしろめたさは、
消そうとすると余計に残るもの。
だから人は、
それに理由付けしてしまうのだと思う。
「仕方なかった」だったり、
「必要だった」だったり、
あるいは「逆さまつげ」だったり。
そうやって調整された理由の中で、
僕らはなんとか折り合いをつけながら、
今日も普通の顔をして生きている。
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