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自閉症のバービー人形が発売された、というニュースを目にした。

ちなみに、彼女は実際に回るピンクのハンドスピナーを持ち、
感覚過負荷を軽減するためのピンクのノイズキャンセリングヘッドホンを装着。
補助的代替コミュニケーション(AAC)装置を象徴するピンクのタブレットも手にしている、
のだそう。

で…
正直に言うと、僕はあまり前向きな気持ちにはなれなかった。

誤解されたくはないので、先に書いておくけれど、
僕は自閉症そのものや、当事者の存在を否定したいわけではない。
社会の中で見えにくくされてきた人たちに目を向けようとする姿勢までを否定するつもりもない。

ただ、「そこまでやる必要があるのだろうか」という引っかかりが、どうしても残ってしまう。

このニュースを見て、ふと昔のことを思い出した。
確か、2023年のこと、ダウン症のバービー人形が登場した、という話題があったはずで、当ブログでも記事にしていたはずだ。
あのときも、「時代だな」と感じた一方で、どこか作為的な匂いを覚えた記憶がある。

同じような感覚は、ヒーロー戦隊ものにもある。
日本の作品では、男性が四人で女性が一人、という構成が長く続いてきた。
それが海外でリメイクされると、男女比はきっちり調整され、五人のうち二人は女性になり、さらに必ずと言っていいほど黒人のキャラクターが加わる。

もちろん、それ自体が悪いと言いたいわけではない。
ただ、「配慮している感」が前に出すぎると、
物語や世界観よりも、帳尻合わせの方が目につくようになる。

近ごろは、いろいろなところで気を遣わなければならない世の中になったものだ、
誰を出すか、何色にするか、どんな属性を含めるか、
作り手がそこまで神経をすり減らさなければ成立しないのは、はたしてほんとうに健全なのだろうか?🤔
とも思ってしまう。

「多様性」という言葉が、逆に「おおかた」の人々が窮屈に感じる世界にさせてしまっているようにも感じる。
少しでも異を唱えれば、差別主義者、レイシスト、と指を指されたりすることも珍しくない。
僕個人的には、なんともおかしな世界になってきたのもだ、と肌感覚でそう感じてもいる。
(この記事の冒頭でも、言い訳じみたことを前置きしなければいけない窮屈さは、僕自身がいちばん感じているところだ。)

人形を増やせば理解が進むのか。
構成を調整すれば公平になったと言えるのか。
僕には、どうもそうは思えない。

「そこまで多様性をやらなきゃいけない?」と感じたのは、反発というより、疲労感に近い。
配慮が義務になった瞬間、考えること自体をやめてしまいそうになる。
その空気が、少し息苦しい。

もちろん、これらを見て救われる人がいるのなら、その価値を全否定するつもりはない。
ただ、違和感を覚えた側が黙って拍手だけを求められる社会も、健全とは言いにくい。

多様性とは、整えることではなく、考え続けることなのではないか。
そんな答えの出ない感覚を抱えたまま、僕はこのニュースを眺めていた。

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