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今の僕は、
よっぽど、今に生きてないのだろうか😅
また今日も、
昔のエピソードをひっぱり出して、
それを題材にして書いている。


お前はいつまでも、
何とか先生の言葉どおりに行動し、
その手の中で生きていろ!

変な宗教にはまると、人生を台無しにするよな。
まさしく、こいつみたいに…
そんな言葉を、僕は心の中で吐き捨てる。

表向きは、軽く作り笑顔。
事なかれ主義で適当に取り繕い、
この場から早く抜け出す算段を巡らせる。
正面から向き合うほどの熱量も、
分かり合おうとする意思も、
正直ない。

他人の人生がどうなろうと、
正直なところ、どうだっていい。
不躾に聞こえるかもしれないが、
みんなそれぞれ、それで良かれと思って生きているはずだ。

ただ、カルト宗教は厄介だ。
教祖の言葉をなぞり、
自分の中に刷り込み、
それを今度は他人に向かって語り始める。
徳を積んでいるつもりなのだろうが、
興味のない側からすれば、迷惑でしかない。

特に、僕にはカルト宗教アレルギーのようなものがある。
信じること自体を否定したいわけではない。
救われる人がいるのも、事実なのだろう。
ただ、疑う余地を与えないまま、
「とにかくいい教えなのだから話を聞いてくれ」なんて、そう迫られると、どうしても身構えてしまう。

だから、
変に期待を持たせるのも良くないと思い、
僕はある時から、きっぱり早めに断るようにしている。

こいつはいくら口説いても「みこみなし!」と如何に素早く思わせるか、
僕はそこにエネルギーをかけるようになった。


迷いを見せた瞬間に、
そこを足場にされる気がして、
僕は言葉を最小限にするようになった。
「行きません」「嫌です」「やりません」「全く興味ありません」って、
こんな言葉ばかりで返していたそんな僕に、
「覚悟しておけ、地獄に落ちるからな!」
と言い放つ奴もいたっけ😆

すごい宗教家だもんだ。
正体見えたり!って思ったけどね。

宗教の勧誘をするのに、

中身の前に納得を求めるやり方は、
やはり、ないんじゃないのかと思うのだ。

結局のところ、
信じる自由と同じだけ、
関わらない自由もあるはずで…

誰かの救いが、
別の誰かの迷惑になった瞬間、
それはもう「善意」では語れない。

それで救われないのだとしても、

少なくとも、僕は僕の判断で、
疑う余地を手放さずに生きていたいと思う。

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