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なりたいとか、そういうのでもなく、
ほんとに脈略無いのだけど…
もしも、
僕に「僧侶」という肩書きがあったなら…
なんて、ぼんやりと想像してみる。

そしたら、
僕の書く文章の読者の捉えられ方も、
もしかしたら変わるのではないだろうか?
なんて、思ったのだった。

なんでかと言うと、
きっかけは、
元フジテレビアナウンサーで、
現在もアナウンサー、そして僧侶をされているという川村妙慶氏のブログをたまにみている僕。

僕のブログもカテゴライズされている関係で、ライブドアブログの「こころ」カテゴリーのランキングを確認する。
そこでいつも上位に川村氏のブログがあって、直近の3つの記事のタイトルが表示される。

シンプルなタイトルなのだけど、
僧侶が語るとなると、
そのシンプルさには、じつは深い意味が込められているのではないか?
とか、思ってしまう。
というか、勘繰ってしまう。
これも僕の勝手な先入観がなせる業なのかもしれないが…

相手が意図的かどうかは別として、
「僧侶」という肩書きを持つ筆者に僧侶視点での何かを期待してしまう僕。

それは、なにも僧侶に限った話ではなく、
「肩書き」に対して何らかの期待感を持つというのは自然なことなのかもしれない。
その肩書きを持つ人ならではの知見とか、
経験談とか…
そんなまのを期待する。

しかし、
その期待感というエネルギーは、
同時に、怖い側面を持つ。

その期待が裏切られた時、
あるいはその「肩書」らしからぬ言動があった時などには、その対象者に負のパワーが注がれることがある。

記憶に新しいのは、
同じく「僧侶」を肩書きにする、千原せいじ氏。
戸田市議会議員の河合氏との対談で、
「お前いじめられっ子やったやろ!」という言葉や、態度が、
いわゆる(僧侶のくせに…)「僧侶」らしからぬものだったと大炎上。大バッシングを受けた。
それが元でかどうかは知らないが、噂では番組レギュラーもなくなったのだとか?
ついには、あんなやつを僧侶にさせる天台宗って何なんだと、クレームも殺到して大ごとになった。

「肩書き」も、それを持っていることでメリットもあるのだろうが、
その肩書きに見合った人で在らねばならないのも確か。

見合わなければ、
当然「〇〇のくせに…」なんて非難されたりする。

望むと望まざるにかかわらず、肩にはめられる。

となると、
肩書なんかない方が、ずっと自由でいられるのかもしれない。

何者かである必要なんて、ほんとはないのだろう。
ただ、そのままで。

それでいいんだよね。

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