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ふと思い出した、あのときの
不可解な自己紹介。
僕がセラピストスクールに通っていた頃、
同期のひとりに、Nという男がいた。
僕より一つか二つ年下だったかと思う。
最初の自己紹介で、彼は一通り話したあと、
最後にさらっと、こう言った。
「ただいま同棲中です…」
ふーん、そうなんだ、
と、特に気に留めることもなく聞いていた。
でも、それからしばらくして、雑談の中で誰かがその話にツッコんだのだ。
「どれくらい付き合ってるの?」
「結婚の予定はあるの?」
なんて。
するとNは、飄々とした様子で答える。
「結婚はしようと思えばできるけど、しないつもり…」
そう言われると、かえって気になってしまう。
なんで?相手はどんな人?どこに住んでるの?とか、あれこれ聞きたくなる。
そのうちに、彼の口から出てきたのは、妙な言葉だった。
「物理的には存在しない」とか、
「実態はないけど…ちゃんといる」とか。
ん?どういうこと?
断片的な言葉をつなぎ合わせて、
浮かび上がったのは、
もしかしてそれって…
“妄想の彼女”?という説だった。
恐る恐る尋ねてみると、Nはごく普通のトーンでこう言うのだ。
「そうですよ。イマジナリー彼女です。」
え?
イマジナリー?
つまり「想像上の」「架空の」ってこと?😨
それを現実のように語るNに、僕は一瞬で引いてしまった。
あっ、こいつ、ちょっとヤバいやつかも…😅
って。
あのときの衝撃と違和感が、いまだに記憶に残っている。
でも最近では、イマジナリー彼女とかイマジナリーフレンドとか、
そういう言葉が、案外ふつうに通じる時代になったらしい。
それどころか、YouTubeやSNSなどでも、当事者自身が堂々と語ったりしている。
たとえば、自分の中に“誰か”がいるとしても、
それを口にしたり、表現したりすることに、
昔ほどの「恥ずかしさ」や「異常さ」のラベルが貼られなくなった。
今や「変わり者」は、
「個性的」とか「自分らしい」とか、肯定的に言い換えられる。
あのとき、ちょっと引いてしまった僕の感覚のほうが、
むしろ古かったのかもしれない。
Nにしても、決してふざけていたわけじゃなかったはず。
彼の中ではそれが、ちゃんと“在る”ものだったのだろうし、
それを誰にどう思われようと語るという姿勢は、堂々としていた。
そう考えると、本当にいろいろなことが、自由になったものだと思う。
LGBTのことにしても、昔なら
「身内に知られたら死ぬしかない」
そんなふうに思い詰める人もたくさんいた。
それが今では、
“そういう質の人もいる”というだけで、
少しずつだが、ちゃんと名前を持って語られるようになってきた。
もちろん、偏見はまだあるし、
簡単に「自由になった」と言い切るのは違うかもしれないが…
でもそれでも、確かに「語れることが増えた」のは事実だ。
昔だったら、口にするだけで浮いてしまっていたようなことが、
今では「ひとつの在り方」として、許容されるようになってきた。
そしてそれは、きっと悪いことじゃない。
自由であるということは、
「おかしさ」も含めて、ちゃんと存在を認められる、ということなのかもしれない。
思えば、こんなふうにして語っている僕も、
見えない世界の話を屈託なく話していたことがきっかけで、
実は「ヤバイ奴」「変わり者」レッテルを散々貼られてきた人だったわけで。
「変わり者」と「個性的」の境界線も、もはやなくなったのだと言えるのかも…
無理して普通を装うより、
自分の“ふつう”を名乗ってしまえる自由。
それが、今の時代なのかもしれないね。
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ふと思い出した、あのときの
不可解な自己紹介。
僕がセラピストスクールに通っていた頃、
同期のひとりに、Nという男がいた。
僕より一つか二つ年下だったかと思う。
最初の自己紹介で、彼は一通り話したあと、
最後にさらっと、こう言った。
「ただいま同棲中です…」
ふーん、そうなんだ、
と、特に気に留めることもなく聞いていた。
でも、それからしばらくして、雑談の中で誰かがその話にツッコんだのだ。
「どれくらい付き合ってるの?」
「結婚の予定はあるの?」
なんて。
するとNは、飄々とした様子で答える。
「結婚はしようと思えばできるけど、しないつもり…」
そう言われると、かえって気になってしまう。
なんで?相手はどんな人?どこに住んでるの?とか、あれこれ聞きたくなる。
そのうちに、彼の口から出てきたのは、妙な言葉だった。
「物理的には存在しない」とか、
「実態はないけど…ちゃんといる」とか。
ん?どういうこと?
断片的な言葉をつなぎ合わせて、
浮かび上がったのは、
もしかしてそれって…
“妄想の彼女”?という説だった。
恐る恐る尋ねてみると、Nはごく普通のトーンでこう言うのだ。
「そうですよ。イマジナリー彼女です。」
え?
イマジナリー?
つまり「想像上の」「架空の」ってこと?😨
それを現実のように語るNに、僕は一瞬で引いてしまった。
あっ、こいつ、ちょっとヤバいやつかも…😅
って。
あのときの衝撃と違和感が、いまだに記憶に残っている。
でも最近では、イマジナリー彼女とかイマジナリーフレンドとか、
そういう言葉が、案外ふつうに通じる時代になったらしい。
それどころか、YouTubeやSNSなどでも、当事者自身が堂々と語ったりしている。
たとえば、自分の中に“誰か”がいるとしても、
それを口にしたり、表現したりすることに、
昔ほどの「恥ずかしさ」や「異常さ」のラベルが貼られなくなった。
今や「変わり者」は、
「個性的」とか「自分らしい」とか、肯定的に言い換えられる。
あのとき、ちょっと引いてしまった僕の感覚のほうが、
むしろ古かったのかもしれない。
Nにしても、決してふざけていたわけじゃなかったはず。
彼の中ではそれが、ちゃんと“在る”ものだったのだろうし、
それを誰にどう思われようと語るという姿勢は、堂々としていた。
そう考えると、本当にいろいろなことが、自由になったものだと思う。
LGBTのことにしても、昔なら
「身内に知られたら死ぬしかない」
そんなふうに思い詰める人もたくさんいた。
それが今では、
“そういう質の人もいる”というだけで、
少しずつだが、ちゃんと名前を持って語られるようになってきた。
もちろん、偏見はまだあるし、
簡単に「自由になった」と言い切るのは違うかもしれないが…
でもそれでも、確かに「語れることが増えた」のは事実だ。
昔だったら、口にするだけで浮いてしまっていたようなことが、
今では「ひとつの在り方」として、許容されるようになってきた。
そしてそれは、きっと悪いことじゃない。
自由であるということは、
「おかしさ」も含めて、ちゃんと存在を認められる、ということなのかもしれない。
思えば、こんなふうにして語っている僕も、
見えない世界の話を屈託なく話していたことがきっかけで、
実は「ヤバイ奴」「変わり者」レッテルを散々貼られてきた人だったわけで。
「変わり者」と「個性的」の境界線も、もはやなくなったのだと言えるのかも…
無理して普通を装うより、
自分の“ふつう”を名乗ってしまえる自由。
それが、今の時代なのかもしれないね。
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