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ここのところ、
友人から、
なぜか唐突に、
高校時代のことを聞かれる機会がある😅

たいていは、
お互いに齟齬が生じて、
いったい本当のところは何だったんだ?
みたいになる。

まぁ、それくらいは大したことではないのだけど、

体験の共有について改めて考えてみる。

公園のベンチに腰を下ろしている人々。

同じ時、同じ場所で、同じ方向を向いていても、
みな、人それぞれ、
見ているものは少しずつ違う。

対象物、奥行き、合わせている焦点などが、
みな違う。

また、
視覚だけじゃなく、
五感全体がそれぞれの体験を作り出しているので、

たとえば、
自分が見ている空の青さを隣の人は同じように感じているかというと、
そうではないかもしれない。
捉える色彩は、その人の感受性や体調、
それに過去の経験によって変化することもあるだろう。

ベンチに座って、
静かなひとときを楽しんでいる人がいれば、
また違う人は、
そのベンチで過去の失敗を思い出して心の中で自己批判を繰り返しているかもしれない。
その瞬間、二人の体験は全く異なり、感じることも、考えることも違うのだ。

ある人にとっては幸せな時間でも、
別の人にとっては苦痛の時間であるかもしれない。
だから、僕らは、
一緒に経験しているようでいて、
実際には「共有している現実」は意外と少ないともいえる。

自分の感覚や思考に没頭しすぎていると、
一緒にいるはずの他人の存在すらぼやけてしまうこともあるわけで。

同じ時間にいるようで、
それぞれが「今」にいなければ、
時間だって共有もしていない。
言い換えれば、
自分だけの時間を生きているといえるだろう。

僕らひとりひとりは、
全く異なる存在として世界を見ている。
人それぞれが経験する現実は、
いつだって自分を中心にした視点。
それは、目に映るもの、聞こえる音、感じる空気などすべてが、
自分自身のフィルターを通して、
価値観や感情が、
世界の捉え方に色をつけている。

他人からは想像がつかない世界。

どんなに親しい間柄でも、
他人の内面的な世界を共有することはできない。

一緒に経験しているようでいて、
それぞれ違う宇宙で経験していた。
そんな事実に気づいて寂しくなった経験もあるが、

誤解の類なんていうものも、
こういうところから生まれるのだろう。

むしろ、
同じ経験をしているということ自体、
勝手な思い込みというものかもしれない。

真実って、
ドライなもの。

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