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5月に入りましたね…
そう、5月です💦
先日から連日綴っている
「ばあちゃんの不思議昔話を書いていく」シリーズ、
いささか自分でも飽きてきたので…😅
ここで一旦、小休止、
ネタはまだあるのだが…
連日ってのはやめてみようかと。
で、、、
時間について思うことを。
昨日のブログ記事の冒頭で、
「時間の過ぎ去る早さに恐怖すら感じます。」
って書いたんだ。
これは本当に正直な気持ちでそう思ったのだった、
僕が感じたこの恐怖を、
この先もこういった感覚を得て、
「ほーんと!光陰矢のごとし、とはうまく言ったもんだなぁ😲」
なんて言いながら、
その時にも同じ怖れを感じるだろう事を予測もしている、
怖れるからには、
そうなって欲しくないという思いがあるわけで、
でも、どうしようもないと思って諦めているのか、
面倒くさくて考えもしないのか…
分からないが…
このままでは、
あっという間に年をとり、
ああこの人生、短く儚いものだったな…
とそんな感じで死んで行くに違いない。
それは是非とも避けたい、
ということで、
いつも心の奥底ではその答えを探していたのだが…
なんとなく、
時間経過が早く感じる理由が、
僕の中では腑に落ちつつある。
世間でよく言われる、
年齢を重ねるごとに、
時間経過が早く感じるのは、
(1年)/(これまでの人生経験年数)
で考えると、年齢が行くほど比例的に1年の長さの比率が小さくなるので、
体感として1年が短く、時間が早く過ぎると感じるようになるということ。
(ジャネーの法則っていうらしい…)
だというのだが、
それを採用しちゃったら、
はいそれまでよ〜😅
ってことになって終わりじゃないか。
子供の頃には、
時間の経過が遅かったというよりは、
時間自体をあまり気にしていなかったはず。
そして、経験の密度が今に比べて圧倒的に高かった。
それは知らないこと、
別の言い方をすると、
興味をそそる対象が身の周りに溢れていたということでもある、
そんなふうに思う。
人は、一度理解し、その理解に沿った経験をしていく度に、
「あ、それはAということね、知ってる知ってる、当然じゃん😒」って、
もういまさら興味も無いし、
飽き飽きしてスルーしてしまうのだ。
やがてもう無意識的に判断するのが当たり前になる。
これは脳のエネルギー温存対策でそうしているのかも知れない。
こうして、
無意識的に判断していくことはオートマチックになり、
やがてはオートマチックになっていることさえ、
忘れてしまうのだ。
この人生を有意に生きるためにできることはないか?🤔
そこで、
オートマチック運転から、
マニュアル運転にしてみてはどうだろうか?
と思い立った。
実験的に、
僕はさっき、
あらゆる自分の行動を、
「弁当を食べる」を意図的に決めた上で徹底的に行動をしてみた。
折りたたみテーブルを用意するといってから、
テーブルを運び、
表面を拭くと決めてから、
台ふきんをすすぐ、しぼる、拭く…とこれも予め意図してから行動をした。
弁当食べるのにもだ、
割り箸を手に取る、割る、唐揚げをとる、口に入れる、噛む、あじわう、
ご飯を口に入れる、ご飯お味を味わう…
なんていう具合にだ。
実際にやってみると、
いかに普段の自分が、
無意識的行動をしているかがよくわかった。
そして、相当な脳のリソースを使ったことも分かった。
でも、普段では感じられない充実体験だった。
おかずやご飯の味をこれほど吟味したのは本当に久しぶりだった。
思わず心の中で、
「あ!味ってこうやってって感じるんだったんだ😲」
で言ったほどだ。
そして、時間感覚が不思議だった、
あくまでも僕の体感上の話ではあるが、
ふと時計を見ると、
あ、まだこれしか時間経ってないんだ?
と、時間の経過がいつもに比べて遅いように感じた。
僕達は、
どれだけ意図的に自分の行動を決めているのだろうか?
意図的な行動をなおざりにしておきながら、
つまり、オートマチック運転に任せておきながら、
「はぁ?😒なぜこんなところに僕を連れてきたのだ?」
と不平を言う。
こんなことが起きているのではないか?
と思えるのだ。
僕はこれまでに何度となく、
「意図的に生きる」
などというフレーズを使ってはみたものの、
本当の意味で使えていなかったのだという想いに至った。
ずっと、
マニュアル運転も疲れるけれど、
一日のうちの数分でも、
ちょっとしたゲーム感覚で、
マニュアル的、意識的に行動してみると面白い気づきが得られるのではないかと思う。
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そう、5月です💦
先日から連日綴っている
「ばあちゃんの不思議昔話を書いていく」シリーズ、
いささか自分でも飽きてきたので…😅
ここで一旦、小休止、
ネタはまだあるのだが…
連日ってのはやめてみようかと。
で、、、
時間について思うことを。
昨日のブログ記事の冒頭で、
「時間の過ぎ去る早さに恐怖すら感じます。」
って書いたんだ。
これは本当に正直な気持ちでそう思ったのだった、
僕が感じたこの恐怖を、
この先もこういった感覚を得て、
「ほーんと!光陰矢のごとし、とはうまく言ったもんだなぁ😲」
なんて言いながら、
その時にも同じ怖れを感じるだろう事を予測もしている、
怖れるからには、
そうなって欲しくないという思いがあるわけで、
でも、どうしようもないと思って諦めているのか、
面倒くさくて考えもしないのか…
分からないが…
このままでは、
あっという間に年をとり、
ああこの人生、短く儚いものだったな…
とそんな感じで死んで行くに違いない。
それは是非とも避けたい、
ということで、
いつも心の奥底ではその答えを探していたのだが…
なんとなく、
時間経過が早く感じる理由が、
僕の中では腑に落ちつつある。
世間でよく言われる、
年齢を重ねるごとに、
時間経過が早く感じるのは、
(1年)/(これまでの人生経験年数)
で考えると、年齢が行くほど比例的に1年の長さの比率が小さくなるので、
体感として1年が短く、時間が早く過ぎると感じるようになるということ。
(ジャネーの法則っていうらしい…)
だというのだが、
それを採用しちゃったら、
はいそれまでよ〜😅
ってことになって終わりじゃないか。
子供の頃には、
時間の経過が遅かったというよりは、
時間自体をあまり気にしていなかったはず。
そして、経験の密度が今に比べて圧倒的に高かった。
それは知らないこと、
別の言い方をすると、
興味をそそる対象が身の周りに溢れていたということでもある、
そんなふうに思う。
人は、一度理解し、その理解に沿った経験をしていく度に、
「あ、それはAということね、知ってる知ってる、当然じゃん😒」って、
もういまさら興味も無いし、
飽き飽きしてスルーしてしまうのだ。
やがてもう無意識的に判断するのが当たり前になる。
これは脳のエネルギー温存対策でそうしているのかも知れない。
こうして、
無意識的に判断していくことはオートマチックになり、
やがてはオートマチックになっていることさえ、
忘れてしまうのだ。
この人生を有意に生きるためにできることはないか?🤔
そこで、
オートマチック運転から、
マニュアル運転にしてみてはどうだろうか?
と思い立った。
実験的に、
僕はさっき、
あらゆる自分の行動を、
「弁当を食べる」を意図的に決めた上で徹底的に行動をしてみた。
折りたたみテーブルを用意するといってから、
テーブルを運び、
表面を拭くと決めてから、
台ふきんをすすぐ、しぼる、拭く…とこれも予め意図してから行動をした。
弁当食べるのにもだ、
割り箸を手に取る、割る、唐揚げをとる、口に入れる、噛む、あじわう、
ご飯を口に入れる、ご飯お味を味わう…
なんていう具合にだ。
実際にやってみると、
いかに普段の自分が、
無意識的行動をしているかがよくわかった。
そして、相当な脳のリソースを使ったことも分かった。
でも、普段では感じられない充実体験だった。
おかずやご飯の味をこれほど吟味したのは本当に久しぶりだった。
思わず心の中で、
「あ!味ってこうやってって感じるんだったんだ😲」
で言ったほどだ。
そして、時間感覚が不思議だった、
あくまでも僕の体感上の話ではあるが、
ふと時計を見ると、
あ、まだこれしか時間経ってないんだ?
と、時間の経過がいつもに比べて遅いように感じた。
僕達は、
どれだけ意図的に自分の行動を決めているのだろうか?
意図的な行動をなおざりにしておきながら、
つまり、オートマチック運転に任せておきながら、
「はぁ?😒なぜこんなところに僕を連れてきたのだ?」
と不平を言う。
こんなことが起きているのではないか?
と思えるのだ。
僕はこれまでに何度となく、
「意図的に生きる」
などというフレーズを使ってはみたものの、
本当の意味で使えていなかったのだという想いに至った。
ずっと、
マニュアル運転も疲れるけれど、
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