今日もこのブログに訪問して下さりありがとうございます!😊

最近よく、
亡き父のことを考える。
あまり家庭を顧みない人だった。
ギャンブルに溺れ、
酒に溺れ、
それによる失敗は多々…
家族はお金で相当な苦労をさせられた💦
と、僕は父を語る時にこんな言葉で表現してしまいがち。
これは刷り込みに起因していることは間違いないだろう、
いつも、母親からは、
「将来はああいう人間にはなってはいけないよ…」と言われ続けてきた。
反面教師の題材としての父という、そういう観点が植え付けられ、固定されたその観点でしか父を語れなくなっているのだろう。
ろくでなし…
自分の父親をこんな言葉一言で括りたくは無いのだが、
今まで、僕はそういうレッテルを貼ってきた。
父のことを思いだせば
夫婦喧嘩の荒れた光景、
情けない姿、
泥酔して玄関先で寝ている姿などなど、
真っ先にそんな光景が思い浮かぶ。
だから今まで、亡くなった父のことを思い出すことなんてほぼないに等しかった。
思い出すことが…というよりは、少なくともいい気分になる事は絶対にないのだから、そういう意味で思い出したくなかったのだろう。
最近よく父のことを考えるようになったのは、
どういうわけなのか、
もちろん僕はわかっている。
何回かこのブログ記事でも触れたことがあるが、
「ありがとう」を日に1000回唱える、を実践中だ。始めてからかれこれ1ヵ月位になるかな。
最初は無機質に唱えていた「ありがとう」、
せっかく唱えているのだからということなのか、いつしか自然に感謝の対象を思い浮かべるようになった。
その中には自然と父の姿も思い浮かんで出てくるようになった。
変な話だが、自分の関係性のいちばん濃い肉親である父親なのに、正直なところ今まではろくに顔をよく思い出すこともできなかったのだが、ありがとうを唱えていく中では不思議と鮮明に思い浮かんでくるのだ。
「ありがとう、ありがとう…」そう連呼していると、
ふと父に関するこんな観点が芽生えた。
もう長い間忘れていたっけな、そんな観点を…
もしかすると、勇気や行動力といった骨のある一面があったのでは?と。
どうしてそんな観点が出てきたのか、
話は遡ること68年前?昭和29年のことだ。
当時若かりし大学生であった二十歳の父は、
その父(ということは僕の祖父のこと)を鉄道事故で亡くした。
今となっては考えられない話だが、踏切警標のみで、遮断機も警報機も設置されていない踏切、電車の近接を知らせるものが一切取り付けられていない踏切、当時はそんな踏切が多数あり、
まだ買って一ヵ月のバイクで、その踏切を横断中に特急電車にはねられて轢死…という、
悲惨な事故であった。
僕が子供の頃、
父からその時の話を何度か聞いたことがある。
もうその当時は、悲しいとか涙が出るとかそんなこと一切なかったと。
どうしてかと言えば、気が動転して何も手につかない祖母にかわり、僕の父が一切をとり仕切った。何日ものあいだ寝る暇もなかったようだ。それだけではない…
(ここからちょっとグロい話になるので苦手な方は次のカッコまで飛ばしてください。)
電車はかなり速度を上げた状態でハネられたため、遺体はまったく正体を留めていなかったという。姉と2人でバケツを持ち、木っ端微塵になった自分の父の遺体はあちこちに飛び散り、血のこびりついた肉片を見つけて箸でつまんではバケツに戻すという、壮絶な経験をしたのだ。あまりにも現実味がなかったのか、一滴の涙も出なかったとか。
(グロい話終了)
鉄道事故を起こせば、当事者にどういう現実がまっているのかを一般のほとんどの人は知らない。四十九日の法要を済ませともあれこれで一段落、ではないのだ。
事故がおきれば当然のこと電車も止まる、その後の復旧作業諸々多大な人員が投入されたりするのもまた当然で、運休した為に利益も損なわれただろうし、それらは丸々鉄道会社が被るわけではない。
遺族には鉄道会社への補償問題が重くのしかかる。
また当時家の建て替えをしている最中で、
支払う金などない。当時は今ほど遺族に寄り添う温情策も法的回避策も皆無で、
何が何でも支払う方向性だったという。
無いものは払えないのだけど、悲惨な事故で一家の大黒柱を失い残された家族にさらなる借金の重荷などを背負わねばならないとなれば、それこそ一家心中も頭をよぎる状況だったろう。
そこで当時の父は、支援者を募り、今回の悲惨な事故が起きた背景には鉄道会社の安全対策に対する怠慢が原因である。危険な踏切を放置しておきながら事故が起きれば遺族に補償を求めるなど本末転倒!危険な踏切の放置に問題があったのだという論点で問題化し、危険な踏切を撤廃せよとの抗議運動を始めたのだった。
その運動に賛同してくれる人たちの力が大きかったのだろう、鉄道会社も実際には負い目もあり、そんな風に社会問題化されては強気に出ることもできなくなったのだろう、補償請求はとりさげられ、一家心中は回避された😅
さらに、これを機に遮断機も警報器もないという危険な踏切の廃止がすすめられていったそう。
悲惨な事故が起きると、もうこのような経験を他の人にしてほしくはないという理由で運動をする人はいるが、父曰く「とにかく金が無かったんだよな、うちには…金を払わないためにはどうしたら…と必死だったんだ💦」とのこと。
他の人のためにという観点は無かったにせよ運動には大きな意味があった。
結果としてちゃんと世のためになったことはすごいことだ。
という意味では発起人の父の行動力たるや、
自分の父のことながら感心してしまう。
対して、僕が齢二十歳の頃なんて、
成人したとはいえ中身はまるで子供だった。
当時の父と同じようなことができたかといえば、
できるという想像もまったくできないし、
萎え萎えでなにもできなかっただろう。
後の父は、ん〜😓な部分が多かったとはいえ、
どうして僕はながいこと、
父のこんなすごい部分に目を向けて来なかったのだろう?
バカだったよな😢
せめて、悪い印象で塗り固めた父をこのエピソードとともに良い面で塗り替えてあげるようにしたいものだと思っている。
今思えば、
いままでの、「父を許した…」
というのは口先だったんだな、
そう思わないといけないと思ってのことだったのかな?
と感じている。
今の気持ちは、許すも何も…
たまに嫌な記憶はよぎるけれど、
今は感謝の対象としての父もいる。
僕の、父への思いが変わってきた。
大げさかもしれないが、
僕のこの観点の変化は、
ある意味で僕の過去と未来を変えさえするのだろう。
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最近よく、
亡き父のことを考える。
あまり家庭を顧みない人だった。
ギャンブルに溺れ、
酒に溺れ、
それによる失敗は多々…
家族はお金で相当な苦労をさせられた💦
と、僕は父を語る時にこんな言葉で表現してしまいがち。
これは刷り込みに起因していることは間違いないだろう、
いつも、母親からは、
「将来はああいう人間にはなってはいけないよ…」と言われ続けてきた。
反面教師の題材としての父という、そういう観点が植え付けられ、固定されたその観点でしか父を語れなくなっているのだろう。
ろくでなし…
自分の父親をこんな言葉一言で括りたくは無いのだが、
今まで、僕はそういうレッテルを貼ってきた。
父のことを思いだせば
夫婦喧嘩の荒れた光景、
情けない姿、
泥酔して玄関先で寝ている姿などなど、
真っ先にそんな光景が思い浮かぶ。
だから今まで、亡くなった父のことを思い出すことなんてほぼないに等しかった。
思い出すことが…というよりは、少なくともいい気分になる事は絶対にないのだから、そういう意味で思い出したくなかったのだろう。
最近よく父のことを考えるようになったのは、
どういうわけなのか、
もちろん僕はわかっている。
何回かこのブログ記事でも触れたことがあるが、
「ありがとう」を日に1000回唱える、を実践中だ。始めてからかれこれ1ヵ月位になるかな。
最初は無機質に唱えていた「ありがとう」、
せっかく唱えているのだからということなのか、いつしか自然に感謝の対象を思い浮かべるようになった。
その中には自然と父の姿も思い浮かんで出てくるようになった。
変な話だが、自分の関係性のいちばん濃い肉親である父親なのに、正直なところ今まではろくに顔をよく思い出すこともできなかったのだが、ありがとうを唱えていく中では不思議と鮮明に思い浮かんでくるのだ。
「ありがとう、ありがとう…」そう連呼していると、
ふと父に関するこんな観点が芽生えた。
もう長い間忘れていたっけな、そんな観点を…
もしかすると、勇気や行動力といった骨のある一面があったのでは?と。
どうしてそんな観点が出てきたのか、
話は遡ること68年前?昭和29年のことだ。
当時若かりし大学生であった二十歳の父は、
その父(ということは僕の祖父のこと)を鉄道事故で亡くした。
今となっては考えられない話だが、踏切警標のみで、遮断機も警報機も設置されていない踏切、電車の近接を知らせるものが一切取り付けられていない踏切、当時はそんな踏切が多数あり、
まだ買って一ヵ月のバイクで、その踏切を横断中に特急電車にはねられて轢死…という、
悲惨な事故であった。
僕が子供の頃、
父からその時の話を何度か聞いたことがある。
もうその当時は、悲しいとか涙が出るとかそんなこと一切なかったと。
どうしてかと言えば、気が動転して何も手につかない祖母にかわり、僕の父が一切をとり仕切った。何日ものあいだ寝る暇もなかったようだ。それだけではない…
(ここからちょっとグロい話になるので苦手な方は次のカッコまで飛ばしてください。)
電車はかなり速度を上げた状態でハネられたため、遺体はまったく正体を留めていなかったという。姉と2人でバケツを持ち、木っ端微塵になった自分の父の遺体はあちこちに飛び散り、血のこびりついた肉片を見つけて箸でつまんではバケツに戻すという、壮絶な経験をしたのだ。あまりにも現実味がなかったのか、一滴の涙も出なかったとか。
(グロい話終了)
鉄道事故を起こせば、当事者にどういう現実がまっているのかを一般のほとんどの人は知らない。四十九日の法要を済ませともあれこれで一段落、ではないのだ。
事故がおきれば当然のこと電車も止まる、その後の復旧作業諸々多大な人員が投入されたりするのもまた当然で、運休した為に利益も損なわれただろうし、それらは丸々鉄道会社が被るわけではない。
遺族には鉄道会社への補償問題が重くのしかかる。
また当時家の建て替えをしている最中で、
支払う金などない。当時は今ほど遺族に寄り添う温情策も法的回避策も皆無で、
何が何でも支払う方向性だったという。
無いものは払えないのだけど、悲惨な事故で一家の大黒柱を失い残された家族にさらなる借金の重荷などを背負わねばならないとなれば、それこそ一家心中も頭をよぎる状況だったろう。
そこで当時の父は、支援者を募り、今回の悲惨な事故が起きた背景には鉄道会社の安全対策に対する怠慢が原因である。危険な踏切を放置しておきながら事故が起きれば遺族に補償を求めるなど本末転倒!危険な踏切の放置に問題があったのだという論点で問題化し、危険な踏切を撤廃せよとの抗議運動を始めたのだった。
その運動に賛同してくれる人たちの力が大きかったのだろう、鉄道会社も実際には負い目もあり、そんな風に社会問題化されては強気に出ることもできなくなったのだろう、補償請求はとりさげられ、一家心中は回避された😅
さらに、これを機に遮断機も警報器もないという危険な踏切の廃止がすすめられていったそう。
悲惨な事故が起きると、もうこのような経験を他の人にしてほしくはないという理由で運動をする人はいるが、父曰く「とにかく金が無かったんだよな、うちには…金を払わないためにはどうしたら…と必死だったんだ💦」とのこと。
他の人のためにという観点は無かったにせよ運動には大きな意味があった。
結果としてちゃんと世のためになったことはすごいことだ。
という意味では発起人の父の行動力たるや、
自分の父のことながら感心してしまう。
対して、僕が齢二十歳の頃なんて、
成人したとはいえ中身はまるで子供だった。
当時の父と同じようなことができたかといえば、
できるという想像もまったくできないし、
萎え萎えでなにもできなかっただろう。
後の父は、ん〜😓な部分が多かったとはいえ、
どうして僕はながいこと、
父のこんなすごい部分に目を向けて来なかったのだろう?
バカだったよな😢
せめて、悪い印象で塗り固めた父をこのエピソードとともに良い面で塗り替えてあげるようにしたいものだと思っている。
今思えば、
いままでの、「父を許した…」
というのは口先だったんだな、
そう思わないといけないと思ってのことだったのかな?
と感じている。
今の気持ちは、許すも何も…
たまに嫌な記憶はよぎるけれど、
今は感謝の対象としての父もいる。
僕の、父への思いが変わってきた。
大げさかもしれないが、
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