ちょっと反省していることがある。
時にひねくれ者の僕は、人の善意を取り違えてしまうことがある。
さっきふと思い出したのだけど…
Twitterでは、その時々に感じた本当の心のつぶやきをツイートしている。
京急線に乗ったときの電光掲示板についての不満をツイートした。
特に韓国中国が嫌いな僕がしたツイートの内容はこんな感じ…
「おいおいここは日本だぞ!どうしてハングルや中国語の電光掲示をするのだ?迷惑ったらありゃしない💢」的な?😅
すると、同業ではあるがコーチングなんかをやっているフォロワーがリプライしてきた。
「へぇ!そうですか?私ならほぅ!ハングルではこういう風に表現するんだなぁとか思って面白がっちゃいますけどね。」
と。
なんかこんなふうにリプライされたことが面白くなくて、無視した。
と同時に何かふつふつと怒りのような感情が湧いてきた。
なんだょそんな悠長な。こうやって日本が外国の勢力にだんだん飲み込まれていってるんじゃねーのか?
勝手に面白がってろ。俺にはただただ迷惑なの!そんな考えを押し付けようって言うのか?っていうのが当時の僕のの正直な心の内だった。
これは、私は変わりましたよアピールではなくって…
今ならなんとなくそのフォロワーさんの言っていたことが「なるほどね!」と思えるのうになった。
自分の体験する現実は、自分のものの見方によって変わります。なんてさ、偉そうに自分では言っていても、自分自身がその見方に固執していて望まない経験をしていたこと、遅ればせながら気がついた。
不平不満を垂れ流し、より不平不満を経験する現実を引き寄せていたんだ。
あの時リプライしてくれたフォロワーさんは、意図的にそんな僕のフレームを揺らしてくれたんだろうな。
ちょっと見方を変えると嫌な現実もそうでなくなるよ。ってね。
ずいぶん時間が経ってしまったけど、あの時は僕に対する善意でああいうリプライをしてくれたんだなぁと、今はそう思える。
後から気づく、人の善意。
感情や、固執した信念にとらわれているがために心がすさんでいると、素直になれず、人の善意に目を背けたり、踏みにじってしまうこともあるんだな。
懐疑的、不寛容、批判的観点でものをみるって自己防衛の一環なのだと思っていたけど、今思えば、恐怖だったのだろうなぁ。
自分の信念に気がつかされ変えられることを防御していたのだろう。
素直、寛容はある意味心の余裕を表しているのかも?
そういう心持ち、大事だな。



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