人にはみなそれぞれ大切なものがあることだろう。

でも、それはどうして大事なのだろうか?

きっと大切にする価値があるからだ。
一度失ったらなかなか取り戻すことができないようななにかか…

またそれは、人によりけり。
それは「モノ」かも知れないし、あるいは心情や気概のような「目に見えないもの」なのかも知れない。
いずれにしてもそれにそれなりの価値を見いだしているからこそ大切にしているに違いない。

時に…
その大切なものを持ち続けていることが苦痛のもとになっていることに気付くことがある。

僕は頑なにも“プライド”が大事だと思っているのだ。
もはやこう言ってもいいかもしれない。
手放そうにも手放せなくなっている。と。

このプライドを持つことが自分をひどく傷つけたり、苦しみや悲しみの基となったりすることがあるのだ。

プライドが高い人はきっと他の人よりも多くの「恥」の概念を持っている。
そしてその「恥」に対しての怖れが非常に強いように思える。

恥をかかないように…という心の姿勢が、行動に於いては臆病にさせる。
失敗することは恥かしいことなのだ!と心中では思っていることだろう。
恥ずかしい思いをするくらいならば、いっそのこと事に臨まないようにしようと…そんな気にさえなっている。

自分のプライドに於いて「頑張り続けて絶対に成功を勝ち取ってみせるぞ!」なーんて、そんな気概に満ちた姿勢でいるのが本当のプライドの高さだと思うのだけど。どうも裏目に出てしまっているようだ。

自己分析して、自己卑下してみてもなんら建設的でない。

さて…原点に戻って考えて見る。
僕がプライドが大事だと思っているからには、そこになんらかの価値を見いだしているからである。

思うに、プライドが高いということは、僕がイメージするかぎり、堕落しないということ、高尚なモノと下劣なモノを見極める目を持ち、人の意見にすぐにに迎合してしまったりしない“自分”を持っている。
というようなこんなイメージだ。

きっと、僕はこのかたずっと、いゃ潜在的にでも、このような人になりたいと思ってきたのだ。
それがカッコイイと思ってきたのだ。

そのくせどうだろう、そのようになれないでいる現在の自分に落胆してみたり、努力の足りない自分を発見しながらも、見て見ぬ振りをしてみたり。また、そんな情けない自分に腹を立てていたりしてきたのだ。

それでもプライドの高い僕は、僕の思うところのプライドの高い人間なのだと他から思われたかったのだろう。
見せかけの虚像をつくろうとしているにすぎないのに屁の突っ張りのごとく、中身のない、プライドを築き上げてきたのだ。

同じプライドでも、誇り高き人間と、高慢な人間とは雲泥の差があろう。

僕はプライドをなくせたらどんなに楽だろうか?と思ってきたのだ。
だからプライドを手放すにはどうしたらいいのだろう?なんてことを考えてきたわけ。
でもそのやり方は正しくはないということに気がついた。
なりたい自分になろうとすべきであって、なりたくない自分から何かを捨てていくことではないのだ。

僕自身の課題は、もっと今まで以上に自分自身を客観的に見る必要がある。と、そう思った。

ランキングエントリー中!

ブログランキング参加中*お願い!クリック

こちらもついでにクリックお願いします。(^ー^)ノ
記事をタグで検索